『箱根板橋日記』毎週火曜更新|長嶺 俊也 Nagamine, Shunya デザイナー 1979年生まれ         


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第67回 「お墓のデザイン」 2014年3月25日

 前回の予告通り、今回は、お墓のデザインについてです。

お墓のデザインといっても、いろいろなカタチのデザイン墓石の話ではなく、お墓参りの動線や理念を考えた上で、現代の社会と新らしくフィットするとしたらどういう立地にあるのがいいかという、少しランドスケープデザインとも関係するような話です。

僕がこのことに興味を持ったきっかけは、友達の実家に遊びに行った時のことです。

その友達の家の庭には、茂みのような小さな小さな小山があり、その中にその家のお墓があったのです。

最初聞いた時は、驚きました。

しかし、じわじわと得体の知れぬ感動がこみ上げてきて、その後その小山のある庭でみんなでBBQをごちそうになったのですが、とても不思議な気分でした。

ただそこにお墓があるだけで(あるだけでというレベルではありませんが)なんだか、その友達の家族の代々に渡る営みの歴史が、急にそこでミニマムに表現されているように思え、昔々の光景がフラッシュバックしてきそうな感覚でした。

それは、なにか今の言葉では言い表せない、人間の根本的な琴線に訴えかけるもののような気がしました。 

まるで、2001年宇宙の旅にでてくる謎のモノリスのようです。


今、現代人にとってお墓は頭の痛い問題になっていることの方が多そうです。

核家族化が進み、実家を出て暮らす方が多くなると、当然自分の家のお墓からも離れてくらす人が多くなります。

また、今問題になっている少子化は、ゆくゆく一人当たりが面倒を見るお墓の数が増えるということにもつながります。



現代において、厳密にはお墓を敷地内につくるのは法律上難しく、その友達の家は歴史が古く、法律の制定以前からそうであったため許可されているのでしょう。

もしやれたとしても、土地の値段も下がってしまいそうですし、現実的にはむずかしいでしょう。

しかし、それを承知で言わせていただければ、お墓というものが今後も残っていくのであれば、墓地型ではなく、庭内型、もしくは、都内の住宅地のように敷地を広く取れない場合には、仏壇を発展させたような家庭内型がいいのではないかと思うのです。

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by nagamineshunya | 2014-03-25 18:25 | 箱根板橋日記

第66回 「お墓参り教のススメ」 2014年3月18日

 先日、春のお彼岸にさきがけて、一足はやくお墓参りに行って来ました。

 ぼくは、お墓参りに行くたびに、そして毎回お彼岸より大分早くフライングしてお墓参りに行くにもかかわらず自分たちと同じようにお墓参りに来ている人たちを見るたびに、日本人というのは「お墓参り教」なのではないかと思います。



 日本人は宗教に対する意識が他の民族に比べると弱いといわれています。

 確かに、ぼくも自分の宗教が臨済宗であるというのは知っていますが、それは「我が家は」という感覚であり、ぼく自身は入信した意識はありません(誤解のないように断っておきますが、ぼくは臨済宗は好きですよ)。

 えー、何が言いたいかというと、つまり日本人は、宗教の教えより、お墓をベースとした祖先とのつながりの中に一種の宗教的な教えを自分で見いだしているのではないでしょうか、ということです。



 定期的にお墓へ行き、墓石を磨いたり、まわりを掃除しながら、親や、祖先、もしかしたら友人や恩人の場合もありますよね、そんな大事な人と心の中で対話する。

 でも、これは先に亡くなった大事な人と対話をしているようで、実は自分と客観的に対話していることだと思います。

 だからこそ、悩んでいた事が晴れたり、逆に戒めになるような事が心に浮かんだり、その時々で自分にとって有効な気づきに出会えるのだと思うのです。

 そして、それを教えてくれるのは、八百万の神や、キリストや、仏陀や、アラーの神などではなく、そのお墓の中にいる大事な人たちの生前の姿です。

 だから、ぼくは日本人は「お墓参り教」である、と思うのです。



 ぼくは今、妻の家族と妻の家のお墓参りに年四回行っています。

 それは、妻の家でそう決まっていたからです。

 では、ぼくの実家はどうだったかというと、実はほとんど行った事がないと思います(記憶がないんです…)。

 その頃は、行ってない事になんだか罪悪感を感じていました。

 でも今思うと、そんな時でも誰かに「うちは全然墓参りに行ってないよ」なんて言いながらも、その瞬間に思いはお墓の中の人に馳せていて、「もうしわけないなあ」なんて思ったりしながら、対話が始まっていたりしましたもんね。

 

 で、その「お墓参り教」教祖にとって、気になる事がひとつ。

 それは、お墓のデザインです。

 と、実はこっちが本題だったのですが、どうも計画性というものがなく、前置きを膨らませすぎてしまったので、今回は珍しく「次回へ続く」、とさせていただきます。

 

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by nagamineshunya | 2014-03-18 21:13

第65回 「補いあう気持ち」 2014年3月11日

 今日はどうしようかと思いましたが、やはり三月十一日であるという所から始めたいと思います。

 朝から、テレビでもラジオでも震災の三年前を忘れないというメッセージのもの、また、いまだ復興の進んでいない現状、停滞(後退?)する原発の問題などをやっています。

 多分、今この瞬間もテレビでは特番を組んで、同じテーマをやっていると思います。

 正直なところ、明るい話題はなく、それが解せない自分がいて、最初それはなぜなのだろうと思いました。

 

 三年間、たくさんの人が、本当に様々な力を発揮して、復興にむけていろいろなコトをして来ました。

 そして、その中で実を結んだことも数えきれないほどあります。

 しかし、今日耳に入って来たニュースの中に、それらの事はなかなか出て来ませんでした。

 
 
 もちろん進まない復興の現状を知らせることは大事です。

 しかし、それだけではなくて、あがった成果を喜ぶ事も同時に必要なことではないでしょうか。

 全体を達成することは大いなる目標であるけれど、その前に小さなゴールがいくつもあって、その度にみんなで喜びあって、祝う。

 そのあたりのバランスをうまくとって、人々に伝えてほしいと思うのです。

 と、テレビ局の編集方針に個人的ないちゃもんつけてしまいましたが、テレビに限らず報道に出来る事には限界があります。

 政治家にも限界があります。

 東電にも限界があります。

 役人にも限界があります。

 企業にも限界があります。

 市民にも限界があります。

 支援者にも被災者にも限界があります。

 

 色々な立場に、いろいろな人がいますが、みんな出来る事と出来ない事があります。

 だから、社会が健全に保たれるには、また今が健全ではないとしたら、少しでも健全な方へ方向修正するには、「補いあう」気持ちが大事だと思います。

 補いあうということは、つまり補ってあげたり、補ってもらったりするわけで、だから補いあうためには、相手のことはもちろん、自分のことも知っておくことが大事だと思うのです。

 僕はどういう人間かというと、短気で、天の邪鬼で、吞ん兵衛で、好奇心が強いわりに、飽きっぽい。

 どなたか、こんな僕をぜひ補ってください。



 あれから三年、明るい「成果」はいろんなところにうまれましたよね。

 忘れない事もひとつに絞らずに、三年前の三月十一日と、その前日、三月十日までの本当になんでもなかった日々の両方を憶えておくというのはどうでしょうか。

 僕自身は、その両方の「忘れない」で、補いあいながら生きていきたいなとおもっています。


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by nagamineshunya | 2014-03-11 20:40 | 箱根板橋日記

第64回 「ウェアラブル・デバイス狂装曲」 2014年3月4日

 最近、様々なメーカーから、「ウェアラブル・デバイス」の実用化イメージのヴィジュアルが発表され、ちまたをにぎわせています。

 「ウェアラブル・デバイス」とはなにかというと、「ウェアラブル」は「身につけられるさま」という、少しまわりくどい形容動詞で、「デバイス」というのは本来パソコンまわりのものを総じてそう呼ぶそうなのですが、ここではスマフォやタブレット端末等のようなものをさしているようです。

 つまり、「装着型のスマフォ」といえばわかりやすそうです。

 携帯電話(とパソコン)は、スマフォへと恐ろしいほどの進化を遂げましたが、いまだ「携帯すること」のわずらわしさからは解放されていません。

 そこで、「携帯」から「装着」へ進むという選択を各メーカーともにとっているようですが、はたしてそれで本当にそのわずらわしさから解放されるのでしょうか。


 有名どころでいうと、グーグルのウェアラブル・デバイスは「グーグル・グラス」、つまりメガネ型。

 アップルは「iWatch」という腕時計型。

 どちらも、近未来を感じさせる洗練されたサイバーデザインです。

 その他にも、指輪型、腕輪型、足輪型など様々です。

 これらは装飾品と組み合わせているモノがほとんどですが、どうも違和感を感じてしまいます。

 それは何なのだろうかと思っていたのですが、原因が分かりました。

 まず、僕は近視ですが、極力眼鏡をかけたくありません。

 外出の時はコンタクトを愛用しています。

 腕時計も極力したくありません。

 今でこそ、ズボンのポケットからスマフォを取り出してチラッと時間を確認するのが情けない年になってきたので、やむを得ず腕時計を使っていますが、そもそもは時間に縛られない生活に憧れています。

 指輪は結婚指輪をつけていますが、これは識別用に身体に埋め込まれた目印のようなもので、生活の中でいちいち外すということもないので、「装着」しているという意識はありません。

 もちろん、腕輪もしていませんし、足輪も、首輪もしていません。

 孫悟空のような、頭の輪っかもしていません。

 なぜでしょうか。

 もちろん、必要がないということもありますが、なんといっても色々とつけているのがわずらわしいのです。

 つまり、僕にとっては「装着する」ということが、「携帯する」ことのわずらわしさを解決するには至っていないと思うのです。

 とはいっても、僕の様に30代男性既婚者というのはマーケットの中ではほとんど相手にされていないジャンルですので、メーカーの人たちは何も気にしないでしょう。

 では、若い女性の場合はどうでしょうか。

 女性はポケットのない服も多いですし、また柔らかい素材の洋服や、体のラインをきれいに見せる服が多いため、ポケットがあったとしても、ラインが崩れるのをおそれてポケットに入れて持ち歩くのを敬遠しがちです。

 そうなると、カバンの中に入れたりする必要があり、これはまず常に何かしらカバンを持っていなければなりませんし、いちいちカバンの中から取り出す分、男性よりもわずらわしそうです。

 そうすると、やはりわずらわしさから解放されるためには、やはり体に装着する道をたどるしかないようです。


 しかし、ここでもうひとつ違和感が生まれてきます。

 せっかくラインのきれいなオシャレな服を着ていても、メカっぽい近未来サイバーデザインデバイスを「装着」していたら、かなり台無しではないでしょうか。

 つまり、そうすると今度はアクセサリーのように様々なデザインを用意して、その日の服に合わせていくつも揃えなければならなくなりそうです。

 使用にあたり、ID関係などはSIMカードを入れかえればカンタンな話しのような気がしますから、端末の本体価格はグッと下がり、アップルの「iWatch」のような、いわゆる「ブランド品」ばかりではなく、例えばザラや、ユニクロや、H&Mといったファストファッションのような安価でファッショナブルなウェアラブル・デバイスが多く出てきそうです。

 そう思うと、価格をおさえてポップなビタミンカラーで展開したiPhoneのカジュアル版「iPhone 5C」というのは、すでにその時代の到来を見越しての登場だったのかとも思えてきます(いちいちそう思わせてしまうアップルのブランディングがまたすごいのですが)。

 そういえば、うちの母はメガネをかけているのに、それに気づかずに家中をメガネが無いといって探しまわるような人です。

 そんな人にとっては、「グーグル・グラス」は画期的なものになる気がします。


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by nagamineshunya | 2014-03-04 18:42 | 箱根板橋日記